こんにちは、まちプロ尚草紙です。
8月29日(土) 新居浜市文化センター中ホールでプレ企画を行います。
「赤いレンガの煙突」山根大通りストリートミュージアムプレ企画
第1部 「えんとつ山を見てきた偉人」
第2部 「赤いレンガの煙突」クレア&香演奏会
えんとつ山を見てきた偉人の物語ができました。
登場する人物は、
えんとつ山を築いた 広瀬宰平
えんとつ山の煙を見て青雲の志を持った 田宮嘉右衛門
えんとつ山の麓に新しい町を造った 鷲尾勘解治
この3人の産業人に加えて、
イラストレーター真鍋博、ウインドウディスプレイの先駆者松田雅夫、巨人の星藤田元司、すみのの恩人近藤廣仲、写真家寺尾国義が登場します。
時は、明治21年初代住友総領事広瀬宰平は山根精錬所を作った。えんとつ山の誕生である。この頃は立川地区に下部鉄道が走り、別子鉱山には日本初の上部鉱山鉄道が走っていた。地元の人は度肝を抜かれたに違いない。なにやら、銅山が盛んになり働く場を求めるものはみな、鉱山に行ったものだが、麓のすみのはまだ農村の村であった。
立川の分店屋敷に田宮嘉右衛門と近藤鹿松は生まれ、共に学ぶ仲であった。田宮の父は実直な人で40年間別子鉱山に勤めた。田宮嘉右衛門は4男で6番目の子どもであった。この頃の住友別子鉱山で働くものは割合裕福になったものである。兄たちは進学し学ことができたが、嘉右衛門が尋常小学校を出た頃、父が亡なくなったことで、事態が変わり進学意欲のあった嘉右衛門は悩んだ。この頃、近藤鹿松は鉄道の運転手として住友別子に勤めており、嘉右衛門は鹿松の運転する電車に乗ったものであった。そんな時、明治21年から明治25年までえんとつ山は煙をあげていた。その煙を見ていた田宮嘉右衛門は算術、暗算が得意で都会に出て仕事がしたいと、青雲の志を持ったのである。
大阪に行った田宮は、住友樟脳で働いていた。しかし、事業はうまくいかず生活は楽ではなかった。時に、隆盛の勢いであった鈴木商店の金子直吉から鈴木商店の樟脳工場で働かないかと誘いを受ける。当時、樟脳会社は激烈な企業間競争があり、秘密保持の原則があった。田宮は恩師が別な会社で樟脳を扱っており、この恩人を裏切ることができず、金子直吉の誘いを断った。金子はこの時のことを覚えていて、田宮嘉右衛門とはいかに誠実な男かと認識した。
しばらく時が経ち、金子直吉の鈴木商店が傾きかけたときに、台湾での樟脳生産に目をつけすぐに行動に移した。同時に、田宮に再度手紙を送り、鈴木商店で働かないかと誘った。田宮嘉右衛門は、樟脳の秘密保持の原則がなくなった事情があり、誘いに応じて、鈴木商店に入社した。
金子直吉は、台湾で樟脳生産を官営事業にしようと後藤新平に働きかけた。後藤新平と意気投合した金子直吉の鈴木商店は再度隆盛の勢いで事業がうまくいった。この台湾ではモルヒネを扱い製薬会社を作った男がいた。星一である。星は群馬県で事業を興し、後藤新平の支援を得て、台湾でモルヒネを扱った。星一は星新一の父である。
後藤新平は政治家であり、東京市長を勤めたこともあり、帝都復興の都市計画を造った男であった。総理大臣にもっとも近い男であったが、最後の元老西園寺を失脚させようとし、西園寺に嫌われたために総理大臣になれずに、失脚してしまった。後藤新平が失脚し、金子直吉も星一も事業が失敗する。
田宮嘉右衛門は鈴木商店が破局したのち、神戸製鋼に入る。これが、鐵の巨人田宮嘉右衛門の誕生である。田宮は、幾多の困難を乗り越え、神戸製鋼を大企業にした中興の祖と呼ばれるようになった。その実業家としての手腕はすばらしく、数多くの企業を育てた。
田宮嘉右衛門が大阪に行ったあとの角野に、鷲尾勘解治が住友別子鉱山の常務取締役になった。鷲尾勘解治は、住友別子鉱山で働く者に教育する場として、私塾自彊舎(命名は鈴木馬左也)を開いた。作務の精神で昭和通りを造り、山根大通りを作った。えんとつ山の麓で新しい町を造ったのである。
近藤鹿松の息子、近藤廣仲は角野の恩人といわれる。名誉市民である近藤廣仲は、角野町収入役、助役、町長、県議会議員を20年勤めた、地域の恩人である。晩年に、自伝を出版する際に、写真撮影を頼んだ人物がいた。寺尾國義である。
寺尾國義は住友化学に勤めていた時から、アマチュアカメラマンとして活動していた。四国山村を撮り続けたその作品は一級の芸術作品であった。住友化学を退社したあと、プロカメラマンとして本格的に活動を始めた。寺尾の撮影した、昔の鹿森住宅や新田社宅、角野の町並み、新居浜の風景は懐かしい記憶をいつまでも残してくれている。
星一の息子星新一は、「人民は弱し 官吏は強し」と後藤を描いている。星新一は、父が亡くなった後の星製薬を継いだが、事業は上手くいかずに他人に会社を引き渡した。その後苦労して作家デビューを果たした。小松左京・筒井康隆と並んで「御三家」と称され、日本を代表するSF作家として知られるようになった星の挿絵を描いたイラストレーターがいる。名コンビと称される真鍋博である。
真鍋博は新居浜の中萩中学校出身で一年先輩にウインドウディズプレイの先駆者で実業家であった松田雅夫がいた。真鍋博は、末来画も数多く描き「鳥の目」で都市を見ていた。真鍋博の描いた未来画に四国8の字構想が描かれており、都市計画の視点の確かさが伺われる。国土交通省(当時建設省)の景観委員を勤めたりもした。
松田雅夫は、金沢の美大を卒業したあと、東京でデザイナーとして日本航空の専属となる。ここから、松田雅夫のウインドウディスプレイが確立され、商デザインの一世界を築き上げるのである。日本航空のウインドウディスプレイで成功した松田は、会社を興し、西武・三越・帝国ホテルといった一流企業の商デザインを手がけ、実業家としても成功する。
真鍋博の同級生に藤田元司がいた。やんちゃな藤田元司と真鍋博は気の合う友人であった。えんとつ山をうさぎ飛びで駆け上がっていた藤田は、そのまま巨人の星となり、名監督になった。
こうして、山根大通りストリートミュージアムに登場する人物は全て時代を経て繋がっているのである。